ジャムのプロフィールに興味を持って頂き、ありがとう(^^)

ジャム
はじめまして
理系保育士のジャムです。

好きなことをして人の役に立ちたい

私はこんな信念を持っている人間です。

20年以上子どもの現場で働き、
時には保育園勤務もありましたが、

主に学童クラブや児童館、放課後余暇支援などを通して、小学生やその保護者とずっと関わってきました。

子どもの数で言えば、累計2000人は下らないと思います。

もと東京大学の理系研究者だったけど、
子どもと関わる世界に触れて魅力に気づき、
それまでの経歴をリセット、

「保育士資格を独学で取る」
からやり直した後発組。

いくつかの章に分けてお話していこうと思います。

プロフィール①章
子どもと出会う前の
いじめられてた暗い世界

私のもとの性格は
優しくて引っ込み思案の人見知り

内向的ってよく言われてましたね。

いま思えば、

ジャム
そんなん、
子どもに言っちゃダメでしょ

って思うんだけど。。

小学校の先生と母が面談で、激しく同意しながら話してたのを覚えてます(^^;)

母親も

そうですねぇ、

うちの子
根暗ですから

みたいに答えたりして(笑)

そんな性格が災いしたのか、小学校5年生くらいから押しの強い相手にうまく主張できなかったりで、

"特定のやつの言いなり"になってました。

まあ、早い話がいじめられてたんですね。

のび太がジャイアンにやられるみたいな
分かりやすい暴力とかじゃなく、

いじめ
帰ったら◯◯に来い、

家から金を持って来い

あれを盗め

そいつは近所では挨拶もハキハキしてて、「よくできた子」で通ってたけど、私に対してだけは陰湿極まりなし。

ジャム
父親が単身赴任で、
寂しかったんかな?

まあ相手の家庭が複雑なのは知ってたけど、私に当たるなよって。

どうやって脱したのかは
いじめの記事でお話しているので、そっちで。

外遊び

そんな経験をしてきんですが、不思議に腐らなかった。

なんでかなあ?って考えてみると、
家が安定してたからかなって思います。

さらにいろんなことをできた経験。

保育園や低学年の小さかった頃は自然科学系が好きだったから、自分で進んで勉強することも多くて、親も私に合わせて環境を用意してくれました。

工作ゾイドのモーター分解して何か作ったり、ミニ四駆とか改造するのにお金を出してくれたり、虫取りに付き合ってくれたり、釣りにつれてってくれたり、

近所の動物園でやってた生き物スクールに、

申し込んだから
行ってきな

要は小学校低学年まで、
楽しく幸せに過ごせてたからだと思います。

いじめられてる時も自分には自信があって、いまで言う自己肯定感もメチャ高かったから、

いじめ相手には面と向かって逆らわないんだけど

ジャム
こいつ、
また無茶言いやがって

みたいな感じ。

不思議でしょ、そんなくらいなら従わなきゃいいのにって。

自分でもそう思います(笑)

でもまあ辛かったんですよ。
嫌でイヤでしょうがなかった。

特に親を裏切る

ジャム
金もってこい

はキツかった。
別に裕福ってわけじゃないし。(6年生くらいの話)

脱出できなかったのは、
子どもの時に何も分からなかったから

だからこの一連のいじめ経験から、大人になって得ていたものは、

分からないからって、
辛い思いをすることなんてない。

という子どもや未経験者全般に対しての考え方。

私が経験済みの、似たような悩み。

それで人が悩んでるなら、ドンドン教えて救いたいという考え方の基礎が培われたんだと思います。

いじめ

そんなこんなで、いじめられ状態のまま、持ち上がりで公立中学に行きました。

勉強を好きでやってたからか塾にも言ったことないくせに、学年400人くらいの中で成績はトップ

途中で邪魔ないじめっ子とオサラバし、自己肯定感や自信を維持しつつ、公立の地区一番の高校へ

高校で残念だったのは、新しく友達を作れなかったこと。

内向的なのは変わらずデシタ・・・(苦笑)

週末とか中学の友達と麻雀とかやってましたね。

勉強好きだったから、
好きなことやって人の役に立ちたいってのがずっと継続し、
自然科学系を勉強するために大学へ行きました。

家は裕福でもないし、尊敬していた父親を高校2年生の時に亡くし、母親が年金で3人兄弟を養ってくれました。

学費は親戚の不動産社長が出してくれました。

普通そんな状況だと金がボトルネックだけど、そこも母の兄が不動産屋の社長で、運が良かったと思います。

自信

ここまでで、だいたいのベースはできたんでしょう。

好きなことをして人の役に立ちたい

知らないからって辛い目にあうことない

これです。

研究者になることで、世の中に貢献したい
と思って大学に入ったから、入学後はひたすら数学や物理学の勉強してました。

取らなくてもいい他の学科の授業まで受けて。

そんな人周りにいなくて、成績もほぼ「優」
おかげで同じ学科で話の合うのは、勉強してる2人のみでした(笑)

高校時代と同じく、学科では友達できず・・・

でもたまたま出会っちゃったんですよね、
たくさんの子ども達に。

次章に続きます。

目次

プロフィール①章
子どもと出会う前の
いじめられていた暗い世界

プロフィール②章 👈️次ここ
研究者になりたくて
入った大学で子どもと出会った話

プロフィール③章
働きだしてわかった
保育業界や子どもたちの抱えている闇

プロフィール番外編~
1年弱で人生転換した話とそこで思った話
(別リンク)

オマケ
学童業界の問題点とこのサイトの目的
(これも別リンク)

プロフィール②章
研究者になりたくて
入った大学で
子どもと出会った話

恵まれた幼少期を過ごしてたけど、小学校5年生くらいからいじめられ、それでも腐らず持ちこたえて友達はできなかったけど高校まで行き、

好きなことをして人の役に立ちたい

と、当時のめり込んでいた物理学や数学を勉強するためだけに大学に入ったところまで。

ジャム
こんにちは
当サイトを運営してます
ジャムです。

その大学で出会っちゃったんですよね、
たくさんの子ども達に。

それまで成績はよくて目的もはっきりしてたけど、言ってみれば勉強ばっかり。

たまにゲームやって机の前でニヤニヤしてる、暗いといえば暗い世界の住人でした(^^;)

そんな状況を変えたいと思ったのか、単に行動力があったのか、大学でサークルの勧誘のチラシをわんさかもらってきて物色。

そこで目をひいたのは

  • アーチェリー部
  • 自然の中で農業を子どもとやろう

⬆この2つ。

山とか川とか好きだったのを思い出して、農業の方に行ってみました。

当時は子どもはどうでも良かった、
というかよく知しませんでした。

友達と小学生のころ遊んだのも、公園で遊んだ記憶とかもあまりなくて、虫取りとかしたかなあ程度。

子どもがかわいいとか言ってる友達を

ジャム
ロリコンか!?

ワケわからんな。。

という目で見ていたくらい、子どもはどうでも良かったんですよ(笑)

ただ「自然」目当てで行ったそこで知ったのは、農業はサブで子どもメインってこと。

原っぱ

先輩の車で連れられて来たのは植え込みで囲われて、中の見えないけどブランコやすべり台の普通の公園

ジャム
なんで
こんなとこ
来るのかな?

って思ってたら、植え込みの向こうがやけに賑やか。

と次の瞬間、、、

いま思えば普通の光景、子どもの頃から友達と公園とかで遊んでたらね。

ただ私は高学年くらいからそんな経験は0だから、かなり衝撃を受けた。

なんだ、この明るい世界は!

子どもたちが元気に遊んでる。

先輩たちが声をかけると、子どもたちも寄ってきました。

子ども
新しいお兄さん来たの~?
男の子
おんぶして~

言われるままにしてあげると、チョー喜んでキャッキャ言ってる子どもたち。

まぶしい世界に戸惑いつつも、たくさん遊びました。

・・これが私の原体験。

その後は毎週末に子ども達と遊ぶのが、楽しみでしょうがなくなった。

大学に入ったのは
自分の好きなことをして人の役に立ちたい

研究者を相変わらず目指してたんだけど、
サークルのメンバーはほぼ教育学部。

そこで子どもたちへ向かう情熱を肌で感じ、こっちもいいかなと思い始めました。

たまに
どうやったら教育学部に編入できるのか?
とか調べてみたり、

ジャム
いや、
俺は教育をしたいわけじゃない。

教育は
新しいものを作るってよりは、

次の世代につなぐだけで
単に繰り返すだけの維持活動だ!

こんな、今思うとよく分からん考えをしてました。。

数学

そんなこんなで迷いつつ東京大学の大学院に進み、最先端の研究に関わるようになりました。

相変わらず週末は子ども達と遊んでて、サークルひとつだけじゃ隔週になっちゃうから、

●中央大学の教育サークルの活動に参加

●区のやってた子どもの活動ボランティア

●障害のある子の放課後支援ボランティア

●養護施設の外出ボランティア

要は

  • 研究か?
  • 子どもと過ごすか?

の2つだけをひたすらやってました。

友達と遊ぶ子ども

そして私の関わってた研究ってのが運がいいのか悪いのか、実用化は50年先って分野。

間接的には役に立つかもしれないけど、当時は実感がわかなかった。

まー、研究職ってのはイメージで憧れて入ると
よほど地味で泥臭い仕事。

ってのを入ってみて知りました。

一日中地下の研究室にこもってデータを取り、パソコンで分析してたら

ジャム
いつの間にか夜だわ、、

みたいな繰り返し。

そして人間的な成長もできるかどうか。

最先端の研究所にもよく行ったけど、ド田舎かつ、とても狭い人間関係。

教授
論文を変に書いたから
アイツはダメだ
学生
東大と京大の派閥が

どーだこーだ

ジャム
下らね。。

私ジャムは、人と接するとかの方面では全く自信ナシ。

小学校ではいじめられ、高校で友達いなかったから、

人間的な成長もしたかった。

成長も

子どもと遊ぶサークルの教育学部の仲間にだいぶ引き上げてもらったのに、また狭い世界に行くのか。。

研究はやめて就職、国家一種でも目指してみるか?

と頭をよぎったけど、過労で大変みたいだから一瞬で検討リストから外れた。

決めたあとにその後の進路、一応母に相談したけど

自分のやりたいことやりな

後押ししてもらいました。

私がやりたいのは、
教育以外での子どもとの関わり。

はじめは研究職で間接的に人の役に立つよりも、直接目の前の人の役に立ち、自分の成長も実感したいって思いだけ

子どもとの関わりはあったけれど、アルバイト的な仕事としての関わりがない状態、イメージ先行の思いだけで保育士になる!


ってなったわけです。。。

ジャム
若かった勢いだけで、
いま考えると
無謀だった気がしますね(笑)

結果論にはとても多くの人と出会い、かわいい子どもたちと一緒に人間的な成長もでき、幸せな人生を送れたと思いますが、紆余曲折あり。

好きなことをして人の役に立ちたい
は相変わらず変わってません。

ただしイメージ通りの保育者への道は、そう簡単でもなかった。

卒業後、研究生活をやめたあとどうなったか・・・

次の章に続きます。

目次

プロフィール①章
子どもと出会う前の
いじめられていた暗い世界

プロフィール②章
研究者になりたくて
入った大学で子どもと出会った話

プロフィール③章 👈️次ここ
働きだしてわかった
保育業界や子どもたちの抱えている闇

プロフィール番外編~
1年弱で人生転換した話とそこで思った話
(別リンク)

オマケ
学童業界の問題点とこのサイトの目的
(これも別リンク)

プロフィール③章
働きだしてわかった
業界や子どもたちの
抱えている闇

ジャム
こんにちは、
ジャムです。

中学までいじめられつつも持ちこたえ、
好きなことをして人の役に立ちたい
と研究者目指して大学に入ったけど、

まぶしすぎる子どもたちに出会い、
あまり深く考えずに
東京大学の大学院をやめるところまで
ストーリー形式で書いてきました。

後先考えずに思いだけでやめちゃったから、
とりあえずバイトをしながら、
保育士資格を取ることにした
私。

  • 児童館や学童クラブのバイト
  • ボランティアしつつ、
  • 居酒屋で夜中から朝まで働いてみたり、
  • 朝5時の弁当屋で箱に詰めるバイト
  • 朝5時のパン屋の品出し
  • パチンコ屋で玉を運ぶ仕事をしてみたり、
  • 引っ越しバイト
  • 道端で看板もって突っ立ってたり、
  • 倉庫で働いてみたりしました。

⬆パチンコ屋さんの経験はかなり役に立った。
玉を運ぶんじゃなくてね。

それまでパチンコ打つヤツは廃人
みたいに思ってたけど(スミマセン)

数学的に勝つ方法が分かったから、ちょっとやってみたら食うのには困らなくなり、バイトも必要なくなって時間も自由になった。

まあ余談。

月収12万の学童クラブ勤めで余裕すぎる1人暮らししてたワケ【ジャム物語第5話】

児童館のアルバイトしてたとき、

子どもたちの話を聞いたり、

家に不満があるらしく、
時間になっても帰りたがらない高学年、

ちょっとのことで興奮してしまって、
自分じゃ押さえられない小学生。

友達関係で悩んでる子もいっぱい。

ジャム
ああ子どもたちって
色々抱えてるのね。

そういえば
俺もいじめられてたなあ

色々思い出すとともに、ボランティアレベルじゃ分からなかった事がだんだん見えてきて、

「辛い思いを、何も分からない子どものうちに経験しなくってもいい。」

👆️こんなことを思いながら
来る日も来る日も勉強してました。

英語

保育士資格を取った後、
ハローワーク行ったら募集してた
都内学童クラブに即正規として採用。

父母会が立ち上げて受け継がれてやってるとこでした。

ビルの一室で最大30人、庭などはなし。

ジャム
よし、頑張るぞ

と1年だけ働くことになるんですが、、

働いてみて

そこ、とんでもないダメ施設だった。

待遇は都内交通費抜いたら125000円、普通人来ない案件。

まあ毎月パチスロ副収入30万くらいあったから、世の保育士が持つような、給料への不満はなかった。

給料は納得して働くことにしたから、まあ当たり前。

ただ入ってみて一番不満に思ったのは、

採用面接であると言ってた研修が一切なし

職場として仕事のノウハウもろくにない

もう一人の正規は病気らしく来やしない。採用されていきなり正規は自分だけ。

バイト2人だけで、毎日20人くらいの子を育成してたという話。

資格を独学で取っただけの私を、普通考えたら主任待遇で取ろうってのがあり得ない話ですよね。

当時はそれすら分からなかった。

ジャム
どんだけ人来ないんだよ。

さらに許せなかったのは不正までしてたこと。

ゴースト職員を、学童の補助金もらうために名簿だけに入れたり、仕事ないのに働いてますみたいに報告。

父母会OBの運営者は、よく分からん理由で中学生の息子を学童のバイトに来させようとしてたけど、本人はモチベーションなくて来やしない。

その来るか来ないかの連絡したり。
(その子は悪くない)

電話

で、職場に不満はあっても子どもたちはそこにいるわけ。

いまからすれば普通なんだけど、

  • 自分の主張ばっかりして通らないと怒る
  • 障害のある子をあからさまにバカにする
  • 元気があるけど発散できないで暴言とか

⬆こんな子どもにどうしたらいいのか?


普通は職場の先輩が教えてくれるんだけど、

正規は来なくてバイトしかいない。

勉強しようにも、当時はネットすらほぼない。

保護者のトラブルもどうしたらいいのか?
運営者に相談しても精神論しか言わず。

結局立ち行かなくなって、

運営者
能力不足だから
別で修行してきなさい

みたいなのを最後に言われて退職(苦笑)

まあ当時の能力不足はその通りなんだけど、今考えても施設の問題。

心残りは、いろんなものを子どもが抱えてるのを分かってたの何もできなかったこと。

その後1年間、

  • パチンコで効率的に稼いで時間を作り
  • 余暇活動ボランティア
  • 子どもや保育/福祉についての勉強

だけやってました。

ノート

そして地元に戻り・・・

保育園など系列でいっぱいやってる大きめの法人に就職、希望が通って児童館へ配属。

実際のところ、そこも当初はベストじゃなかったんだけど前の学童がクソ過ぎたから、

  • 主任と館長のなかが悪かろうが、
  • 若い職員ばっかでノウハウがなかろうが、
  • 倉庫がぐちゃぐちゃでゴミ溜めだろーが、

あんまり気にならなかったですね。

一番良かったのが

研修がしっかりしてて、頻繁にあったこと。

そして職員も若いながらいっぱいいて、成長していけたこと。

現場で学び、学んだことで改善し、子どもたち含めたくさんの人と出会い、いつの間にかその法人で20年以上働けたのは、私の幸運だと思います。

そこは長く働いたのち、個人的な事情〜体力的な問題や、家庭的な事情で退職。

ちなみに記事を書くのに調べたら、一発目の学童クラブがまだ存続してました。

さすがに良くなってるハズ。

と期待しつつそれ以上調べなかったけど(笑)

現在はビジネスをちゃんと学ぶ機会に恵まれて、執筆活動やボランティア活動とか比較的自由にして過ごしています。

在勤中に結婚して娘も2人、毎日安定して幸せに。

お風呂

知らないからって、辛い目に合うことはない

学童/保育業界で働く大人、子どもを持つ保護者、子どもたちに対して私はずっと思ってきました。

子どものために働きたいっ!!

と志や夢をもった人たちが、業界特有の下らない問題に傷ついて去っていくのあまりに残念って思うんです。

家族のために仕事したい」って感じの保護者に対しても同じく。

保護者が安定せずに割りを食うのは子どもたち。

私の信念は、
好きなことをして人の役に立つこと

知らなくて辛い目に合うこともない

20年以上学童クラブや児童館ちょっと保育園、主に小学生低学年ばっかり、おそらく数千人は関わってきた経験を、広く伝えること。

それによって2つの信念の具現化したい!というのがブログ運営に対しての思い。

ジャム
読んでいただきありがとうございました。

最後に私が独立に至ったきっかけは
別の記事で書いてます。(番外編)

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